先週、北海道に行ってきました。
札幌で、勤務税理士時代の友人とゴハンを食べたとき
彼女が「私たちはもう消化試合だからね」とつぶやいていて
それが、いい意味で印象的でした。
役立てたことが分かるとうれしい
少し前、とある業界紙に相続についての原稿を書きました。
その後の号で、読者アンケートをみたところ
人気記事ランキングの1位になっていて
ちょっとびっくりしましたが、素直にうれしかったです。
「役立てた感」が分かりやすい仕事と分かりにくい仕事
自分の仕事が誰かの役にたつのは、うれしいしありがたいことですが
仕事の種類によって、その役立てた感が分かりやすいものと分かりにくいものとがあり。
申告や相談といったクライアントワークは
目の前に相手がいて、直接フィードバックをもらえますし
講演などの話す仕事も
オンラインではなく対面なら、その場である程度、聞き手の反応が分かります。
でも、雑誌への執筆や取材は
依頼して下さった方の満足度も、もちろん大切ですが
肝心なのはさらにその先にいる、読み手に役立てたかどうかで。
本やウェブ記事なら、ある程度、部数やページビューに反映されますが
雑誌や業界紙はそれもなく。
なので、こうやって見える化して頂けて、ありがたかったです。
だけど受け身より、望んで得たものの方が意欲がわく
ちょうど先週、書籍の企画を通して頂き、新たに本を書き始めました。
私は、編集者さんの側から依頼されるという
「受け身」の形で、本を書いた経験がありません。
正確に言えば、共著や監修はありますが、単著はないです。
なぜかというと、私にとって本を書くことは、
鶴が自らの羽を抜いて機を織るようなもの(イメージは鶴の恩返し)
あまりにしんどすぎるので
ナマケモノの私が自ら「心から書きたい!」と思う内容でないと、多分やり遂げられないから。
だから、受け身の仕事で貢献できることも、大切だし光栄ですが
それだとどうしても
「役立てた感=自分の価値」のように
結果への満足度が、外発的な要素に左右されてしまう気がします。
そろそろ消化試合の年代にさしかかってきたからこそ
仕事に限らず、人から望まれてじゃないし、自分にとってはさほど得とはいえなさそうなことでも
「だって、私がやりたいことだから」という、内発的な動機に基づく行動で
できるだけ日常を埋め尽くしたい、と考えています。
旭川ですら33度もあり、旭山動物園の動物たちはかわいそうでした。
キリンはめったに水を飲まないそうなのに…